三田市ゆかりの人物:九鬼隆一

三田市に住みませんか?

三田市ゆかりの人物:九鬼隆一

九鬼隆一は近代日本の官僚、政治家として知られる人物です。美術品や文化財の保護・調査に尽力した人物で、現在の三田市で生まれました。慶應義塾に学んだあと、文部省に出仕し、文部少輔(現在の文部省事務次官)にまで栄進しましたが、1887年に駐米匿名全権公使に転じました。1888年の帰国以後は宮中顧問官、帝国博物館総長、貴族院議員を、晩年には枢密顧問官を長く務めました。美術分野にも造詣が深く、かつて三田市にあった三田博物館の創設者でもあります。

九鬼隆一の生涯

1850年9月12日、三田藩の家臣で180石取りの星崎貞幹の次男として藩内の屋敷町(現在の三田市)で生まれました。1860年に母・龍が亡くなりますが、藩主・九鬼隆義の斡旋で、跡継ぎを探していた綾部藩家老・九鬼隆周の養子となりました。慶応元年に家督を継ぎ九鬼家の当主となりました。三田藩の藩政改革に携わっていた福澤諭吉が大阪江戸堀の半屋敷で饗応された際に同席し、面識を得ます。明治2年5月19日に九鬼隆義と共に上京した際に福澤を再訪し、藩の推薦もあって慶應義塾への入塾を許可されました。同年11月、綾部藩の洋式練兵中隊長、権少参事などの職に就き、山陰鎮撫総督として丹波街道の塚原口を受け持ちました。明治3年2月に川本幸民の私塾に入学し、閉校までの数ヶ月間、教えを受けました。同年11月には権少参事の職を退き、翌年2月に慶應義塾に入塾して英語などを学びます。この頃に幼名の貞次郎から隆一と名乗るようになりました。

国費留学制度の改革

明治5年4月には文部省の十一等出仕し大学南校の監事、同9月には大学東校事務主任となりました。当時国内の教育予算のうち40%弱が海外に派遣されていた260名の留学費用に充てられており、文部省としては彼らの留学を打ち切ってその費用で外国人教師を招聘することを考えていました。留学生は薩長土肥の高官や明治維新の功績者の子弟が中心であり、特権的な留学による身分の固定化への危惧や、優秀な学生の機会獲得のため、九鬼は文部省の方針に積極的に賛同していました。このため、現地で留学生の実態両者と帰国の説明・説得にあたるため、明治6年に九鬼は渡欧しています。当時の留学生の中には井上毅、井上和郎などもおり、当初は強い反発を受けたのですが、中江兆民の理解などもあって最終的には全員の承諾を得ることが出来ました。なお、制度変更後の第一回国費留学生には政治家となった鳩山和夫、外交官となった小村寿太郎などの人材がおり、結果的に九鬼の目標は達成されたと言えるでしょう。説得の成功もあり、帰国後の明治7年4月には文部少丞となります。さらに明治9年4月には奏任官である文部文部大丞・一等法制官に、翌・明治10年(1877年)年1月には文部大書記官・太政官大書記官に昇進しました。10月には翌年のパリ万国博覧会のために派遣され、明治12年5月に帰国しました。この渡仏中に博覧会副総裁の松方正義と出会い、以後交流が深まります。また、フランスで西洋美術や美術行政に触れたことがきっかけでこの分野へ関心を持つようになりました。この後にアーネスト・フェノロサや岡倉天心と面識を持ち、その美術研究の支援者となります。後援を受けたフェノロサらは京都や奈良をはじめ全国各地で寺社などにある文化財の調査を効率的に進めました。

「九鬼の文部省」と福澤諭吉との対立

明治13年に現在の文部省事務次官に当たる文部少輔となった九鬼は、同11月には内国勧業博覧会の審査副長および議官に就任します。藩閥の力が強力な当時では、小藩出身の人物の出世としては異例の速さでした。九鬼はその役職で、文部卿(現在の文部大臣)の河野敏鎌の行政への関心が薄かったこともあり、「九鬼の文部省」と呼ばれるほど権勢をふるいました。しかし翌年、自由民権運動に歯止めをかけようとしていた伊藤博文らにより、いわゆる明治十四年の政変が起き、大隈重信が政府から追放されてしまいます。この際、大隈や福澤諭吉が藩閥政府に代わる内閣を組織しようとしていたとの疑惑から、福澤の影響が強い慶應義塾出身の官僚が多数官を辞することとなりました。その中には犬養毅、尾崎行雄なども含まれていました。彼らと同じく慶應義塾出身の九鬼でしたが、彼らとは一線を画して文部省に残り、福澤の文明開化主義に反対する伝統主義的な教育政策を取りました。このため九鬼と福澤の関係は極度に緊張し、後に福澤の会合への招待状を誤って九鬼に送った事務担当者に福澤は「九鬼の存在は座上に犬ころがいるようなものだ」という過激な表現で注意したことも知られています。なお、最終的には九鬼が福澤に謝罪し、和解が成立しました。

権勢の衰退

明治15年12月、文部卿に新しく大木喬任が任命されます。彼は九鬼への信頼が弱く、さらに翌年強力な九鬼の支持者であった岩倉具視が亡くなると、文部省での九鬼の権勢は弱まっていきます。さらに明治17年、西洋化を進める伊藤博文の方針で森有礼が初代文部大臣に就任したため、元田永孚とともに儒学的な指向だった九鬼は同年5月に文部省を去ることとなりました。九鬼はその後、特命全権公使としてワシントンD.C.に赴任します。ワシントンでは公使館の客間に数百幅の日本画を飾って日本美術を紹介し、また古美術品の海外流失防止の観点から国宝保存を文部省や宮内省に進言しました。この背景には以前から交流のあったアーネスト・フェノロサの意見があったと考えられています。明治20年、ヨーロッパでの視察を終えたフェノロサと岡倉天心がアメリカに立ち寄り、数年振りの再会を果たしました。九鬼の妻・九鬼波津子が妊娠していたため、天心が付添として一緒に帰国。明治21年2月15日に生まれたのが後の九鬼周造です。九鬼自身も同年2月に帰国しました。

帝国博物館総長へ

帰国後、九鬼は宮内省の図書頭に就任します。ここで臨時全国宝物取調掛を設置して自ら委員長となり、旧知のフェノロサや天心が委員を務めて文化財の調査や保護に当たりました。明治21年5月から9月と、10月から翌年2月の2回にわたり、フェノロサを伴って近畿地方を訪れ、社寺や美術品を調査したそうです。翌明治22年に東京・奈良・京都に帝国博物館が設立されると、初代総長となり、明治33年までその職を務めました。同年には九鬼の支援した現在の東京藝術大学美術学部にあたる東京美術学校も設立され、フェノロサが校長を務めました。また、明治23年に上野で開催された第3回内国勧業博覧会では審査総長を務めました。同年には帝室技芸員の制定に携わり、また帝国議会の設立に際して貴族院議員に任命されています。翌・明治24年4月には、農商務大臣・陸奥宗光の命令で2年後のシカゴ万国博覧会の準備組織作りを行ない、実質的な責任者である副総裁を務めました。明治26年のシカゴ万国博覧会では、九鬼や天心の意向で日本の展示は日本画を中心とした伝統的なものとなりました。日本館には平等院鳳凰堂を模した鳳凰殿を建て、工芸品の輸出を積極的に促進しました。

晩年

明治29年には、それまでの功績が認められ、男爵の称号を与えられています。翌年には古社寺保存法の制定に加わり、同法によって日本で初めて文化財が指定されました。ここまで順調な人生を歩んできた九鬼でしたが、明治31年にいわゆる美術学校騒動が起き、旧知の仲であった岡倉天心と九鬼の妻・波津子の不倫が公となりました。天心は責任を問われ、東京美術学校校長や帝国博物館美術部長の職を辞任することとなりました。明治33年には波津子との離婚が成立し、その後は主に美術行政に専念します。大正3年には旧・有馬郡の役所を利用して自身の収蔵品を展示する三田博物館(現在は閉館)を設立しています。大正9年には議定官となりましたが、昭和6年、その職を務めたまま、鎌倉で亡くなりました。

三田市に住みたい人へ

クリニック 開業支援 http://www.kaigyoshien.jp/のクリニック開業支援.comではこれまでに数多くのクリニック開業をコンサルティングしてまいりました。実績で選ぶならぜひ当社までご相談ください!

↑ ページの上部へ

三田市について

北摂三田ニュータウン:フラワータウン

三田市の観光名所:虚空蔵山と羽束山

三田市ゆかりの人物:九鬼隆一

おしらせ